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環境エッセイ 第9回 海洋酸性化の脅威

2010年05月21日
csij 【001. 水・大気】

上田昌文


科学の次なる最大のフロンティアは、宇宙でなくて海ではないか、と常々私は考えている。気候や生態系の地球規模での変動のメカニズムを理解するのに、海洋は決定的に重要な因子だが、陸上やあるいは大気圏と比べてさえ、探索の手段が限られていることもあって、未解明の点が多い。たとえば温暖化に海がどう関与しどう影響を受けるのか、といった事柄は、今まさに研究が進行中の領域だ。命を育み、資源を蓄え、気候や環境を支える海について、私たちは理解し始めたばかりだと言える。
未知なる存在を前に、わずかなりともわかってきたことによって危機のシグナルが点滅するにの気づかされたとき、人類はどう行動するのか。かつてオゾン層の破壊を警告する声が科学者から発せられたとき、フロンガスの全廃と代替フロンの開発に向けて世界は大きく動いた。海洋の酸性化は、同様の対処を人類に求めているように思われるが、その原因であるCO2排出に対して、以下に述べるような破局的な事態を回避できるほどにすばやく"総量規制"をなし得るだろうか。

地球上にある天然水の酸性・アルカリ性の度合い(pH:水素イオン濃度)は、たとえば日本の温泉で見ても、酸性の温泉(草津温泉pH1.6)からアルカリ性の温泉(長野県白馬八方温泉pH11.28)まで大きな幅がある。ところが、海水はpH8.1前後のごく弱いアルカリ性を示す範囲に留まり続けている。川であれ湖であれ海であれ、大気に水が接していると大気中のCO2がその濃度に応じて、水に溶け込むことになる。海水にはもともとアルカリ分が多いのだが、CO2が溶けることで、酸(水素イオン)を中和する炭酸水素イオンや炭酸イオンが生成され、その働きによってpHが中性付近で安定することになるのだ。海の生物の大半はこの環境に適応して進化してきたので、極端なpH環境では生きられない。

海水のこうしたバランス作用も、適度なCO2濃度のもとで生まれるものであって、大気中のCO2濃度が大きくなると、その分海水自体が酸性化するのは避けられない。現に、産業革命以前の大気濃度(280ppmのCO2)の時に海の平均的なpHは8.17程度だったが、現在の大気濃度(380ppm)でpHは既に8.06程度にまで低下している、と指摘されている(Science誌321巻2008年7月4 日号。ただしこれは表層の海洋で、深層ではもっとゆっくり変化する)。海洋は、産業革命後に人間が排出した二酸化炭素の約40%を吸収してきたが、これによって海水は業革命以前と比べて約0.1(10%)酸性化したことになり、今世紀半ばまでには酸性化がさらに進む可能性がある。

海洋酸性化がすすむと何が問題か。大きくいうと二つある。
1つは温暖化が加速すること。海は、前述したように、人間活動によって放出されたCO2を吸収し、大気中のCO2濃度を抑える役割を果たしてきた。IPCCなどが想定する地球温暖化の進行速度は、海洋の現在のCO2吸収能力を前提に算出されている。海洋酸性化がすすんで、この能力が落ちてくる(飽和に近づく)場合、大気中のCO2濃度の上昇速度は予想以上に大きくなると思われる。
もう1つは、石灰質(炭酸カルシウム)を有する生物種が絶滅の危機に追いやられ、それが海の生態系を破壊すること。前述のように、炭酸イオンは酸性化した海を中和するのに消費されるから、酸性化がすすめばすすむほど、プランクトン(有孔虫など)や貝類の殻の主成分である炭酸カルシウムの形成に必要な、炭酸イオンの濃度の確保が難しくなる。珊瑚の骨格形成、ウニの成長や発生、巻き貝の成長、エビ類の成長が阻害され、クモヒトデの生殖器官の異常発達や植物プランクトンの円石藻の外殻異常など、悪影響は非常に広範囲に及ぶ。これらが激減あるいは死滅すれば、当然魚類など多くの海洋生物が死滅することも避けられない。
海洋生物への影響は、石灰質についてだけとは限らない。熱帯魚であるクマノミの一種の稚魚が、海水の酸性化が進んだ条件下では、嗅覚による環境の識別ができなくなったとの研究結果を、オーストラリアなどの研究チームが発表した。研究チームは「酸性化がこのまま続けば、感覚障害によって多くの生物の個体数が減少、海の生物多様性が失われるだろう」と述べている(『朝日新聞』09年2月3日)。

海洋酸性化に関する現在までの包括的は報告は、生物多様性条約事務局と国連環境計画世界自然保全モニタリングセンターが共同で行ったレビューだが(09年12月に公表)、この報告書によると、2050年までに海洋の酸性度は150%増加すると予測されている。2100年までに冷水サンゴの約7割が危険にさらされ、2050年までには南洋において、石灰質を必要とする生物種をはじめ、多くの生物種が打撃を受ける、としている。さらに、CO2排出速度が変わらなければ、生産力の高い北極海においてミネラルが不足する事態になる、とも指摘している。

地球の歴史を振り返ると実は、酸性化のせいで海の生物のほぼ半分が絶滅した時期があった。今から5500万年前、メタンハイドレート(海底にあるメタンガスを含んでいる地層)の崩壊などのせいで地球が非常に暖かい時代(平均気温が現在よりも7~8℃(高緯度域では9℃)高い)を迎えていた。この時代の大気中のCO2濃度は1200ppmにも達したが、そのCO2増加速度は、今の半分以下の0.8ppm/年だったと試算されている。そして、この海洋酸性化が回復するまでに10万年を要したという。珊瑚礁の回復にいたっては200万年である。

恐竜絶滅以来の地球環境の歴史に思いをはせよ――海洋酸性化は、そんなスケールでの想像力を働かせながら先んじた手を打つことを私たちに求めている、と言えるだろう。■

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